じかじょー

 最近のわたしは、卒論書かねば!→一人でパソコンに向かうことが多くなる→自分を見つめる→へこむ
…みたいなことになってました。くわばらくわばら
自意識が、劣等感につながっているのかも。
まずは、行動しなきゃ。「自分を探すな!仕事を探せ!」ですね!

 

演劇の力を利用した空間作り

 今まで、演じたり、観たりしてきた芝居には、現代劇はもちろん、時代の違うもの、外国のもの、SFもの…と、様々な種類があった。時代背景や世界観が、まったく違う様々な作品を、同じカンパニーが扱う。こうした変幻自在な力も演劇の持つ魅力だと思う。
 この空間作りのパワーを、劇場以外の場所でも発揮できないだろうか。
 例えば、最近どんどん増えているメイド喫茶はどうだろう。
 わたしは、メイド喫茶もすでにひとつの劇空間として完成していると思う。本当はメイドではない、萌系の女の子。彼女はメイドの○○ちゃんを演じている、役者だ。メイド服は、衣装。「おかえりなさいませ、ご主人(お嬢)様。」が、基本の台詞。そして、ご主人(お嬢)様は、観客であり、役者でもある。
 そしてわたしがすごいと思うのは、この、本来なら観客になるだろう喫茶店の客を、役者としても扱っていることだ。ご主人様という役を与え、ときには、メイドさんとゲーム♪という形で、この劇に参加してもらう。
できあがった異世界の空間。足りないのは、あなた。あなたが、この空間に参加したときに、この空間が完成する。そうした、参加する演劇でもあるのだ。

観られることの意識

 今の自分の体型が、役に合わないと判断されたとき、役者としての体作りが求められる。映像と違って舞台では、ズームされることはないので、肌荒れなどの細部はごまかせるかもしれないが、体型はごまかしきれない。役者にとって自分の体型を管理できるということは、プロ意識につながってくると思う。
 そしてこのことは、わたしにとって大変難しいことだった。
わたしは、学校の総合実習という場において、水着になる芝居を演じたことがある。あれは、まずかった。まず、水着を着ていい体ではない。デブなのだ。女として、デブなのに水着姿を人目にさらしたのがまずかったのではない(もちろんそれもまずいのだが)。デブであるべき役は、ほかにいたのだ。わたしは、デブキャラではないにもかかわらず、デブだったのだ。わたしのせいで、本来のデブキャラがあまり説得力のないものになってしまったのは間違いない。彼女のことを「太い!」と言う台詞があっても、隣にわたしがいては、観客は、なんでこの人は何も言われないんだろう?と思っただろう。わたしが芝居のリアルを崩していたのだ。
 わたしは、この水着を着なければいけない芝居で、いつも以上に観られることを過剰に感じ、バランスを崩していた。結果を見ると、最悪な形として、観られることへの意識の低さが表れてしまったのである。
 またこの芝居はダブルキャストだったのだが、もう一方のデブ役の人は、まったく太っていなかった。細身だったのだ。やはり台詞が嘘になってしまっていた。
 この芝居を通して、体型の持つ説得力の大きさを改めて感じた。