観られることの意識

 今の自分の体型が、役に合わないと判断されたとき、役者としての体作りが求められる。映像と違って舞台では、ズームされることはないので、肌荒れなどの細部はごまかせるかもしれないが、体型はごまかしきれない。役者にとって自分の体型を管理できるということは、プロ意識につながってくると思う。
 そしてこのことは、わたしにとって大変難しいことだった。
わたしは、学校の総合実習という場において、水着になる芝居を演じたことがある。あれは、まずかった。まず、水着を着ていい体ではない。デブなのだ。女として、デブなのに水着姿を人目にさらしたのがまずかったのではない(もちろんそれもまずいのだが)。デブであるべき役は、ほかにいたのだ。わたしは、デブキャラではないにもかかわらず、デブだったのだ。わたしのせいで、本来のデブキャラがあまり説得力のないものになってしまったのは間違いない。彼女のことを「太い!」と言う台詞があっても、隣にわたしがいては、観客は、なんでこの人は何も言われないんだろう?と思っただろう。わたしが芝居のリアルを崩していたのだ。
 わたしは、この水着を着なければいけない芝居で、いつも以上に観られることを過剰に感じ、バランスを崩していた。結果を見ると、最悪な形として、観られることへの意識の低さが表れてしまったのである。
 またこの芝居はダブルキャストだったのだが、もう一方のデブ役の人は、まったく太っていなかった。細身だったのだ。やはり台詞が嘘になってしまっていた。
 この芝居を通して、体型の持つ説得力の大きさを改めて感じた。